「怒り」の変貌

怒りはたくさんある。

だからといって今の自分の何もかもを社会のせいにする気はない。

社会の、誰かのせいにしても誰も自分の人生に責任はとってはくれない。

しかし「自己責任論」のみに帰結するのとも違う。

 

守れなかったもの、大切にしきれなかったもの、傷つけてしまったものすべて、自分に憤り、それが後悔や自責へと繋がっていき、しまいには「自己否定」から「生存への否定」と変貌してしまう。

己への怒りは一種の諦めのようになり、もはや怒りのような激情さえもなくなり、あたかま生への執着がなくなってしまったようにさえなる。

 

花が美しい

美味しい

素敵な曲に出会う

 

そんな気づくべき、そこにある幸せにさえ気づかず、たとえ気づいたとしてもそれを振り払い、あたかも「死んでるように生きている」と自己催眠をかけ、そこはかとないじっとりとした深みに自ら横たわる。

それが何かへの贖罪なのか、諦めた態度なのかはわからない。

しかしその執念は粘着質で、諦めた態度から出てくるとは思えない激情の怒りへと再変換されることもある不思議。

 

「生きる希望は?」

そんなキラキラした質問に答える術はないけれど、

「生きる意味は?」

そんな人類が始まって以来、偉大な哲学者や文豪たちが叡智を持ってしても何千年も答えられずにいる質問に答える術はないけれど、

 

道歩く黄色い帽子と黄色いカバーを掛けたランドセルを背負っている蝶々のような少し賑やかすぎる子どもたちに、ニコッと微笑んであげたい。

 

人生への態度は、「前向き」ということではなく、真摯でありたい。