悲しみは海より碧く、深く〜suicide story〜

父の自死。私の人生。新たな命。苦悩、喜び、葛藤、そして生きるということ、死ぬということ。

【ラスベガスの銃乱射事件を受けて】「理解できない」でいいのだろうか?

アメリカで悲惨な事件が起こりました。

アメリカ史上最悪の犠牲者を出した銃乱射事件となりました。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

私は幼少期、アメリカに住んでおり、そんな幼児にすらアメリカでは警察に止められたら、ポケットに手とか入れたり怪しい行動はせずすぐに手を上げなさいと教えられました。

 

とくに地域的に田舎でアジア系の人間すら珍しかったので、厳しき注意喚起されました。

まだ未就学児にたいし、警察に怪しい動きをしたら撃たれるぞと教え込むのです。

希少なアジア人だったとは言え、さすがアメリカとしか言いようがありません。

 

 

さて本題です。

この凄惨な事件、多くのテレビコメンテーターが「理解に苦しみます」「信じられない」と言っています。

感嘆詞としての意味なら、そりゃこんな事件が起きたら誰でも「理解に苦しみ」という言葉が出るのも当たり前です。

 

信じられなことです。

あまりに酷い無差別殺人です。

 

でも本当に微塵も、犯人の気持ちを理解できないのでしょうか。

共感するとは違います。

 

いじめられたことのある人間なら誰しも「あいつら、みんな死んじゃえばいいのに」と思ってことはあるのでは。

 

会社でのハラスメントで、あの人いなくなればいいのにと思ったことがあるのでは。

それは会社から去ればという意味ではなく、この世からという意味です。

 

恨みつらみからは何も生まれないと言われますが、そういう感情が生まれるのは、感情をもった人間なら自然なはず。

 

それを異常というのなら、私は幾度となくいじめになってきた中、異常な思考回路ができてしまったのかもしれません。

 

いじめていた相手がこの世からいなくればといつも思っていました。

初詣でお願いするほどでした。

 

その周りの嘲笑している大衆もいなくなればと思いました。

彼らも実質加担者です。

 

父が亡くなってからの職場の対応もとても厳しいものでした。

元気ハツラツだった私がPTSDを背負って職場復帰してしまったのですから。

やる気が無いなら辞めろの大合唱でした。

なんとか、なんとか這いつくばっても会社に通い、いつか前に自分に戻れると信じて頑張ろうとしていた

私の思いは、誰のせいでもない、ただただ私自身の覚悟の弱さで打ちのめされてしまいました。

 

みんな消えろ

そんなダークな自分を抱えてしました。

 

「でも人は殺さないでしょ!」

「無差別なんてあまりに自分勝手」

そんな声が聞こえてきます。

 

確かにそのようなことをしなかったから今の私があります。

しかし犯人の気持ちが全くわからないという訳ではありません。

破壊願望です。

 

ISが犯行声明を出してますが、便乗しているような気がしてなりません。

 

人は追い詰められると何をするかわかりません。

そしてそのポテンシャルは誰もが持っているのものだと思います。

そこを否定する場合はきっと、性善説を信仰しているのかもしれません。

 

人が追い詰められ、不条理に苦しめ続けられれば、どんな行動をするかわかりません。

それは自分にたいしてもそう思います。

 

家族が殺され、司法では納得いかない判決、被害者なのに個人情報を全部出され、プライベートもなくなったら。

社会すべてが敵になるかもしれません。

 

自分一人の命を絶つことで納得できるのか。

社会的に大きな爪痕を残して逝きたいのか。

少なくとも、現時点では後者を考えることは微塵もありません。

 

話がまとまりませんが、全く理解できないと弾弓するだけでそのバックグラウンドは考えなくていい訳がありません。

想像できないのは犯人の突拍子もない行動だからでしょうか?

それとも受け手側の想像力の欠如でしようか?

 

極悪非道人の心情など、理解できないのが世の常なら、きっと極悪非道人はいなくならないでしょう。

 

無差別殺人犯の心情を理解できるわけではありません。

しかし人が追い込まれ追い詰められ虐げられたら、理不尽な怒りが外に向かおうとするのは理解できます。

 

銃大国アメリカは恐ろしいと口を揃えて言いますが、

公園で自爆したおじいちゃんは、祭りの進行を予測して爆弾も仕掛けていました。

新幹線で焼身自殺して、巻き添えで亡くなった人もいます。

 

年間2万人以上もの人が自ら死んでいき、年間600人もの人が鉄道に飛び込んで死んできます。

 

「理解できない」でいいのでしょうか?