悲しみは海より碧く、深く〜suicide story〜

父の自死。私の人生。新たな命。苦悩、喜び、葛藤、そして生きるということ、死ぬということ。

突如あの日からできた、今までになかった「死」という選択肢

誰もが一度や二度、死にたいなぁなんて思ったことはあると思います。

思春期の頃なのか、青年期のときなのか、それは人さまざまです。

 

恋でなのか、

親や兄弟との喧嘩なのか、

友だちとの喧嘩のか、

学校でのいじめなのか、

テストの点が悪くて親に見せたくなっかたからなのか、

翌日、予防接種があるからなのか、

バイトをバックレてしまったからなのか、

就活全敗だったからなのか

はたまた幼少期に読んだ宇宙やお化けの話を思い出し、寝る前になぜか漠然と「死」というものを意識したからなのか。

 

「死」は別に特別なことではありません。

多くの人は深い浅いは関係なく自然に感じるものです。

 

順番というものがあるのだとすれば、祖父母の死を経験するでしょう。

一緒に住んでいればその「死」はより身近に感じるはず。

 

地方にいれば、たまにあったときのあの優しい笑顔が見られなくなるという喪失感、自分の生活圏にいなかったから実感がよりわかない感じがあるかもしれません。

 

小さい頃からずっと一緒にいたペットも「死」をより身近に感じさせてくれます。

ペットは死にから嫌なんだよなぁという言葉はよく聞きますが、しかしそのペットが与えくれた幸せ、ともに歩めた人生はかけがえのないもので、人生の活きる糧にもなります。

 

しかし「死」がより近い人のものであればあるほど、それが理不尽だったり唐突であったりすれば、人はその死を受け止めきれない場合も往々にしてあります。

 

それが「自殺」だったなおさらです。

大好きだった人が、あんなに愛おしかった人が自ら死を選んでします。

否定や拒絶を繰り返しながらも、その人自身の存在や生き様は否定できるものではありません。

 

そうなるとあの人が選んだ「死」というものにも、納得はできなくても理解しようという気持ちが生じることは不思議ではないということです。

 

そうなると、自分の中の、選択肢の中にも「死」というものが鮮明に沸き立ってきます。

それは「自殺」したいとかそういう願望のことではありません。

いえ、どっかに願望があるのかもしれません。

あの人に一刻でも早く会いたい、

こんなつらい人生、世の中ならばいっそあの人のところにいきたい。

そんなことを潜在的にも思っているのかもしれません。

 

でも明確に「よし、死のう!」となるわけではありません。

なんというか「死」といものがより近く、身近で、そして選択肢に「死」がやはりあるのです。

 

いざとなったら「死」があるんだ。

これも誤解なきように、「死んでやる!」というニュアンスではありません。

結局人は遅かれ早かれ死ぬんだから、という感覚です。

 

人生は壮大な暇つぶしという喩えがありますが、暇つぶしにしてはハードすぎます。

でも死ぬのだから、そう気張っても仕方ありません。

 

なにもかも嫌になって投げ出したくなったら、投げ出せばいいんじゃないですか?

投げ出したどうやって生きていきばいいの!?なんて思っているうちは、まだ十分「生」への執着があるからいいのではないでしょうか。

 

あの人を、あの子を、あの状態を残してなんていけない、なんて思っているのならまだまだ生きる源があるのだと思います。

 

だって、あの人はそんなのがあっただろうに、なにもかも投げ捨てて突然逝ってしまったのだから。

 

死という選択肢があるからこそ、生が浮き立って見える今晩でした。