悲しみは海より碧く、深く〜suicide story〜

父の自死。私の人生。新たな命。苦悩、喜び、葛藤、そして生きるということ、死ぬということ。

ポジティブな人がとにかく苦手、だってそれを押し付けるから

ポジティブな人もいればネガティブな人もいます。

そしてそれは人生の肯定感に繋がりやすくもあります。

 

コップに水が半分入っている状態で、

もう半分しか入っていないと思うか、

まだ半分も入っていると思うか。

 

これでポジティブかネガティブを計るようなことがありますが、とてもナンセンスだと思います。

 

状況の捉え方は人それぞれで、別にどっちに捉えても問題ないのです。

もう半分しか入っていないと思って、手を緩めず全力で取り組む人もいれば、

まだ半分も入っているからと油断して最後に泣きを見る人もいるかもしれません。

 

状況を判断してそれにどう対応するかが大切ではないのかと思います。

意外とトップアスリートはネガティブで不安症の人が多いのも、

彼らは飽くなき探究心と負けん気があり、まだ足りなまだ足りないと努力し続けます。

 

彼らがポジティブで、「まだ全然大丈夫だよ」などと悠長なことを言っていたら、たちまちライバルから突き落とされるでしょう。

 

つまりポジティブかネガティブか、どっちがいいかなんて人生の良し悪しには関係ないのです。

しかし世間の風潮はポジティブにとか楽観的にとかを推奨します。

そのうち「考えない力」などといった文言までもてはやされてしまいます。

フランスの哲学者パスカルが言った「人間は考える葦である」とは真逆です。

 

別にどちらに真理があるとはいいませんが、考えないってことはとても恐ろしいことだと私は思っています。

考えなければ、いじめや自殺、労働問題、その他さまざまなことに無頓着になってしまうと思います。

 

もちろんこの「考え力」とはうじうじ考えて、変えようもないことに悩み疲れ、人生に疲弊してしまうのはもったいないから、考えない時間も作ってリラックスしましょうといった話なのではないかと推測します。(すみません、読んではいないので…)

 

でもうじうじ悩まないってことを考えてどうするか最善の策を見出すのが大事なのではと思います。その試行錯誤こそが人間の成長につながることだとも思っています。

 

ポジティブな人は、ある意味何も考えていないように私は感じます。

想像力が欠如しているのです。

「大丈夫だよ」

「きっと良くなるよ」

「前を向いて生きなよ」

「時間が解決してくれるよ」

「止まない雨はないよ」

 

笑止千万。

あなたの伴侶、親、子供、兄弟など大切な人が死んでもそんなこと言えるでしょうか?

と思っていると、彼ら彼女らは言うのです。

「あの人のぶんまで前を向いて生きないと!」

ということを。

 

いえ、その考え自体は個人の自由、生き方の自由なので全く問題ありません。

しかしポジティブ人間は往々にして人にその考えを強力に押し付けてくるです。

その考えはとても排他的で相手を尊重していません。

 

「ポジティブ」という錦の旗を振りかざし、想像力の欠如を武器に「嫌なことは忘れ、前を向き、うじうじしてても仕方ない」という論調を通すのです。

 

何を言っても彼ら彼女らには通じません。

「あなたの大切な人がどんな死に方してもそんなこと言えるの!?」

などと問い詰めても、響かないのです。まさにポジティブ病です。

 

では、そんな人がどうすればいいか。

近づかないことです。離れられるなら離れるべきです。

ポジティブ病に人の言葉が刃物よりも尖り、氷よりも冷たく、的確に深く、そして何度も何度も傷口をえぐってきます。

しかも最も質の悪い「悪意のない悪」で。

 

まさか自死遺族でそんな人はいないだろうと思う人もいるかもしれませんが、私はそのような人を何人も知っています。もちろん比率としては少ないですが。

 

そして私の毒親のようでもある母もそのような感じがある人です。

とても近くに住んでいますが、ほぼ絶縁状態です。

「あなたが殺したようなものなのに」

そんな思いも沸々と沸き起こってしまいます。

 

ポジティブな人にはできることなら近寄らない。

ポジティブ病の人の発言は一種の宗教地味たものだと理解すること。

ポジティブ病の人は想像力、共感力が欠如していることをこっちが理解してあげる。

 

ポジティブ病に人に無駄に傷つけられるのは避けましょう。