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悲しみは海より碧く、深く〜suicide story〜

父の自死。私の人生。新たな命。苦悩、喜び、葛藤、そして生きるということ、死ぬということ。

自死遺族は仕事が限られる それは生きる範囲も限られてしまうという話

大切な人の自死の衝撃は計り知れない。

まして第一発見者になってしまえばその衝撃は悲しさや喪失感だけでなく、物理的ではないのだけれど、表現としては物理的なダメージを心身に受けるといった表現が近いかもしれません。

 

どんな人でも、日常生活でいきなり死んだ人を見ることなどまずありません。

事件、事故等で目撃してしまった人は、大きな精神的ダメージを受けます。

そしてそれが身内や知っている人ならダメージは深刻極まります。

 

大切な人の突然の死は、その人が今まで積み上げてきたさまざまものを一瞬で崩します。

人生観、肯定感など180度一変します。

 

人生観が変われば仕事感も当然変わります。

もう一生懸命生きる必要性を感じなければ、仕事へのモチベーション低下は当然です。

看護や介護も、人の命のお世話をする仕事に対しても疑問を持ったりしても不思議ではありません。

 

警察や消防など、人の死の現場を目の当たりにし、さらに自殺現場にも駆けつけなくてはいけない職業は、過酷そのものです。常にフラッシュバックのきっかけがあるのですから。

 

医療従事者としての看護師、そして医者も、人の命を救うために懸命に処置し、そして経過観察をするのに、患者の自殺、無用とも思える延命処置など、患者の自殺は別としても今まで疑問を感じなかった医療現場に対して不信感が芽生えるかもしれません。

 

鉄道関係者でも、飛び込み現場を目撃する可能性は少なくなく、またその清掃やお客様対応をしなければなりません。

 

これらの職業従事者が大変なのは、自殺現場や命の前線で活動している場合、一緒の働いている、活動している同僚たちの無意識の言葉たちです。

 

「なんで必死に命を救っているのに、自ら死ぬやつがいるんだよ」

「生きたい人が一杯いて、生きるために日々戦っている人がいるのに何で自ら無駄死にする人間がいるんだ」

「いっぱい飛び散って悲惨だね」

「最期にあんな姿で死んでいくなんてなんのために生まれてきたんだろうね」

「そんなふうに死ぬんならせめて臓器提供できるように死んでほしいね」

「命の無駄遣い」

 

こんな声が現場ではわんさか聞こえます。

もし大切な人を自殺で失っていたら、この現場の声の中で働くことは地獄です。

 

現場ももっと慎重な発言をするべき。と思う人もいるかもしれません。

もちろん遺族や第三者の前ではこのような発言は決してしません。

してしまったら大問題です。

 

しかし身内で話す言葉は違います。それはどこだってなんだって同じはずです。

そしてこれは「二次受傷」防止のために大切な事でもあるんです。

「二次的外傷性ストレス」ともいいます。

「代理受傷」、「共感性疲弊」、「外傷性逆転移」ともいいます。

ある程度文字の外観で意味が把握できると思います。

 

これらの防止策には、思ったことを率直に話し合い、暴露し、内に溜めないということが重要になってくるのです。

 

命の現場で働く人が、命の事で疲弊しきってしまっては仕事になりません。

命の現場で働くからこそ、命に対して思ったことを率直に話せる場が大切なのです。

しかもなるべく早く、速やかに、です。

 

つまり職員の心の健康を守る手段でもある方法に対し、その中に自死遺族がいれば地獄そのものなのです。みんなが自殺に対しての本心、ダークサイドとも言える本音を暴露しあうのですから。

 

自死遺族が命に携わる仕事をすることはとても大変です。

命に近ければ近いほど、その傾向は強くなります。

 

すでにそこで働き、生活の基盤を置いていた時、その自死遺族にとっては地獄のような日々が待っています。

養う家族がいたら尚更です。

 

もちろん、それでも人の命を助ける仕事に携わりたいと日々頑張っている遺族の方もいます。それでもしかし大切な家族が自殺した経験を持っていると、何気ない職員同士の会話で酷く傷つくことは少なくありません。

 

人の生死を見るより、その同僚たちの言葉が一番つらいということは往々にしてあります。

 

しかし生きている中で、自死遺族がそういった言葉に遭遇することは多くあります。

通勤通学での人身事故。

会社、学校でも知り合いの自殺。

ニュースでの自殺報道。

そして何気なく見ていたドラマや映画での突然の自殺シーン。

 

そのたびにその事実に傷つき、そしてそこで発せられた言葉にも傷つきます。