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悲しみは海より碧く、深く〜suicide story〜

父の自死。私の人生。新たな命。苦悩、喜び、葛藤、そして生きるということ、死ぬということ。

今更感がありますが 清水富美加の出家について思うこと。

もうだいぶ下火になりましたが、先日までゴシップメディアを賑わわせた「清水富美加 出家問題」。

headlines.yahoo.co.jp

 

 

芸能ニュースに果敢に飛びついていこうという気は微塵もありませんが、

この出家騒動には少し思うところがあるので、ブログで取り上げます。

 

そもそもこの出家騒動の大きな問題は、清水富美加さんが突如出家し芸能界を引退すると宣言したことです。

 

正式には芸能界を引退するのではなく、出家先の幸福の科学のもとで芸能界をするということです。

 

余りに突然だったので、映画やテレビ番組などの仕事関係に大きなダメージを与えてしまいました。

主演の映画公開や撮影中の映画もあり、関係各所てんやわんやとのことです。

 

一人で芸能活動をしているわけではなく、所属事務所はじめ、共演者やスポンサーなど大勢で協力してい一つの番組や作品を作り上げるので、会社の一つの歯車とは違い、その本人にしかできない仕事を放棄するのですからその責任は余りに重大です。

 

一説には1億円以上の違約金を請求させるのではという情報も出ています。

 

さて、ここまでがゴシップネタですが、果たして彼女の選択はどうだったのでしょうか。

 

もし彼女が本当に追い詰められながら仕事をしていたのなら、そして真摯に相談できる事務所関係の人もおらず、それに相反し人気がうなぎのぼりで仕事が次々舞い込んできて、契約期間のその先にも実質どんどん仕事が舞い込んできて二重にも三重にも仕事が重なったきていたなら、彼女自身が適切な辞めるタイミングを見極めるのは相当困難だったと思います。

 

心身消耗状態で仕事が次々と舞い込んできたらもう逃げるしか方法はないのではないでしょうか。

きっとよりベターな選択肢はあったかもしれませんが、ベストなタイミングなどは存在しなかったかのではないでしょうか。

 

そうやって逃げられない人が、最後は死ぬしかないという道を選んでしまうのが現代社会です。

学校でのいじめ、仕事先でのパワハラや労務違反など、閉鎖的な村社会の日本では、一度その村に入ると簡単には出てこれません。また出ることを悪とします。

 

この閉鎖的な村社会、全体主義の日本で追いつめられた時、命以外の何もかもをかなぐり捨て逃げないといけない場合は往々にしてあります。そうでなければ命をかなぐり捨ててしまうのです。

 

宗教の自由は憲法で保障されているので、彼女が逃げの場所を宗教にしたのは誰も責めることはできません。

しかし彼女の両親が信者で生まれたときから信者だった彼女が、本当に彼女の意思で選んで宗教の道を選べたのか。様々な世界や考え方、宗教観を持ち多角的に判断できたかは疑問です。

もし幼少期から、信仰に背いたら罰があるなど埋め込まれていたら、もはや悪質な洗脳です。しかし宗教とは得てしてそういった側面を持っています。

 

私の知り合いでも片方の宗教のため婚約破断した人もいました。

あなたは入信しなくても最悪仕方がないけど、子供は絶対に入信させるなどと逝ったことが問題でした。

 

宗教とは相手の、個人の信仰を認めない部分を大なり小なり持っています。

信じないものは救われない。とても排他的なのです。そうでないものもありますが…、結局は…。

 

また幸福の科学はカルト宗教としての要素も色濃く出いています。

フランスで採択された報告書『フランスにおけるセクト』は、「通常の宗教か、セクト(破壊的カルト宗教)か」を判定する国際的な指針の一つとされています。
この中で、以下のように「セクト構成要件の10項目」を列挙しています。

1.精神の不安定化 (洗脳、マインドコントロール
2.法外な金銭的要求 (多額の寄付金要求)
3.住み慣れた生活環境からの断絶 (監禁、出家など)
4.肉体的保全の損傷 (暴力:精神的暴力も含む)
5.子供の囲い込み (子供の洗脳教育)
6.反社会的な言説
7.公秩序の攪乱
8.裁判沙汰の多さ
9.従来の経済回路からの逸脱
10.公権力への浸透の試み

以上の項目のいずれかにあてはまる団体を、セクトとみなしています。

創価学会は、10項目すべてに該当し、しかも、フランスだけではなく、ドイツ、チリ、ベルギー、オーストリア、アメリカ(議会下院)といった国々でもセクト指定されています。

引用:新興宗教を斬る ~政治と宗教の闇~

 

以下の記事では実際の宗教家に幸福の科学とはについて取材し大変興味深い記事になっています。

rocketnews24.com

 

 

また、彼女が生まれながらに、信者である両親に入信させられ赤子のときから洗脳させられているのはフェアではないという考えには深く同調します。

しかし、ではこの日本社会はどうでしょうか。

 

たしかにネットは普及し様々な情報を統制されることなく取捨選択できるので、一般人は洗脳されていないと思うかもしれません。フラットでさまざまなものの見方をできると思われているかもしれません。

 

しかしそれは本当でしょうか。

果たして本当に日本人はフラットでしょうか。

村社会、全体主義

この国の学校教育、24時間戦う企業戦士を作るための教育、隠蔽と自己保身の公務員、利権と既得権益だけの官僚機構。

だれもが疑問に思うのに、子供には日本の教育制度の中で受験をさせ未だに日本だけにしか通用しない高学歴を追い求め、子供に就かせたい職業、また成りたい職業上位には常に日本人が忌み嫌う公務員という矛盾。

 

安定している既得権益側に回ってしまえばいいと言う浅はかでさもしい思考。

 

普通の家の親でもすでに日本文化の洗脳を受けており、フラットな考えなど持ち合わせていない人が大部分なのではないでしょうか。

それを子供が受け継ぎ、とにかく大手に就職することが人生の安泰だ、成功だと。

そして見事な奴隷になり、ときには過酷な労働に耐えられず命を絶ち、ときには大手企業にも関わらず、そして社員従業員にはコンプライアンス遵守を押し付けている中、隠蔽・粉飾・偽装で巨額な損失を出したり信頼を失い倒産危機に晒されたりと。

 

それでもなお受験は加熱し、いい大学に進み大手企業に入ることが勝ち組の道となっています。はるか昔からこの国の価値観は微塵もアップデートされないのです。

 

話がだいぶそれてしまいました。

 

清水富美加さんが逃げたことはある意味で仕方がなかったのかもしれませんし、それを第三者が責めることはできませんが、関係者はそれで被った被害は賠償すればいいでしょう。

 

微塵もなくった彼女の信用はまた彼女自身が取り戻していけばいいのです。

しかし出家後、すぐに本を出版し、彼女の擁護派は見事に撃沈してしまいました。

 

私も同じです。

結局宗教側に利用されているだけなのかもしれませんが。

 

生きるって本当に複雑です。

生きるとは哲学です。

 

 

ポジティブな人がとにかく苦手、だってそれを押し付けるから

ポジティブな人もいればネガティブな人もいます。

そしてそれは人生の肯定感に繋がりやすくもあります。

 

コップに水が半分入っている状態で、

もう半分しか入っていないと思うか、

まだ半分も入っていると思うか。

 

これでポジティブかネガティブを計るようなことがありますが、とてもナンセンスだと思います。

 

状況の捉え方は人それぞれで、別にどっちに捉えても問題ないのです。

もう半分しか入っていないと思って、手を緩めず全力で取り組む人もいれば、

まだ半分も入っているからと油断して最後に泣きを見る人もいるかもしれません。

 

状況を判断してそれにどう対応するかが大切ではないのかと思います。

意外とトップアスリートはネガティブで不安症の人が多いのも、

彼らは飽くなき探究心と負けん気があり、まだ足りなまだ足りないと努力し続けます。

 

彼らがポジティブで、「まだ全然大丈夫だよ」などと悠長なことを言っていたら、たちまちライバルから突き落とされるでしょう。

 

つまりポジティブかネガティブか、どっちがいいかなんて人生の良し悪しには関係ないのです。

しかし世間の風潮はポジティブにとか楽観的にとかを推奨します。

そのうち「考えない力」などといった文言までもてはやされてしまいます。

フランスの哲学者パスカルが言った「人間は考える葦である」とは真逆です。

 

別にどちらに真理があるとはいいませんが、考えないってことはとても恐ろしいことだと私は思っています。

考えなければ、いじめや自殺、労働問題、その他さまざまなことに無頓着になってしまうと思います。

 

もちろんこの「考え力」とはうじうじ考えて、変えようもないことに悩み疲れ、人生に疲弊してしまうのはもったいないから、考えない時間も作ってリラックスしましょうといった話なのではないかと推測します。(すみません、読んではいないので…)

 

でもうじうじ悩まないってことを考えてどうするか最善の策を見出すのが大事なのではと思います。その試行錯誤こそが人間の成長につながることだとも思っています。

 

ポジティブな人は、ある意味何も考えていないように私は感じます。

想像力が欠如しているのです。

「大丈夫だよ」

「きっと良くなるよ」

「前を向いて生きなよ」

「時間が解決してくれるよ」

「止まない雨はないよ」

 

笑止千万。

あなたの伴侶、親、子供、兄弟など大切な人が死んでもそんなこと言えるでしょうか?

と思っていると、彼ら彼女らは言うのです。

「あの人のぶんまで前を向いて生きないと!」

ということを。

 

いえ、その考え自体は個人の自由、生き方の自由なので全く問題ありません。

しかしポジティブ人間は往々にして人にその考えを強力に押し付けてくるです。

その考えはとても排他的で相手を尊重していません。

 

「ポジティブ」という錦の旗を振りかざし、想像力の欠如を武器に「嫌なことは忘れ、前を向き、うじうじしてても仕方ない」という論調を通すのです。

 

何を言っても彼ら彼女らには通じません。

「あなたの大切な人がどんな死に方してもそんなこと言えるの!?」

などと問い詰めても、響かないのです。まさにポジティブ病です。

 

では、そんな人がどうすればいいか。

近づかないことです。離れられるなら離れるべきです。

ポジティブ病に人の言葉が刃物よりも尖り、氷よりも冷たく、的確に深く、そして何度も何度も傷口をえぐってきます。

しかも最も質の悪い「悪意のない悪」で。

 

まさか自死遺族でそんな人はいないだろうと思う人もいるかもしれませんが、私はそのような人を何人も知っています。もちろん比率としては少ないですが。

 

そして私の毒親のようでもある母もそのような感じがある人です。

とても近くに住んでいますが、ほぼ絶縁状態です。

「あなたが殺したようなものなのに」

そんな思いも沸々と沸き起こってしまいます。

 

ポジティブな人にはできることなら近寄らない。

ポジティブ病の人の発言は一種の宗教地味たものだと理解すること。

ポジティブ病の人は想像力、共感力が欠如していることをこっちが理解してあげる。

 

ポジティブ病に人に無駄に傷つけられるのは避けましょう。

 

 

読んでくださる方がいる、そして私の想い

ブログを書き公開している以上、読んでいる方がいるのは当然です。

 

しかし読んでもらいたいと思ってもなかなか読者がつかない人も多くいます。

 

自分のプライベートを開示して注目されたい人、アフィリエイト等の商売目的、お役立ち情報(これも商売に繋がるものですが)などさまざまあります。

 

このブログの目的は商売でも自己開示をして注目されたい訳でもありません。

 

私自身自死遺族であり、もう10数年になります。本当にさまざまな経験をしました。9割は地獄でした。9割は言い過ぎかもしれませんが…。

 

自死遺族と繋がりたい。というのは少しニュアンスが違うかもしれません。自死遺族は自分も含めてとてもネガティヴでドス黒い感情を持っています。その刃は日頃自分自身に向いていますが、時として他者に圧倒的な切れ味で向けられることが少なくありません。

 

それはとてもセンシティブだからこそ、少しのニュアンスの違いにいきり立ってしまうのです。私も数年そんな時期がありました。

 

しかしずっと継続する人も中にはいます。

今は衰退しきってしまったmixiでも数え切れないほどのトラブルがありました。

 

そして遺族会でも多くのすったもんだもありました。参加者としても主催者としても。

 

だから多くの自死遺族とどんどん繋がっていきたいとは全く思っていません。

ただ不意に自死遺族になり、目の前の世界が崩壊し、暗闇の中さまよっている人に、何か私の経験を伝えられればと思い、ブログを書くことにしました。

 

拙い文章で荒いのですが、敢えてあまり読み返さず構成も考えないことで、ありのままのことを発信できるかなぁと思っています。

 

自死遺族の代弁をしようとも思っていません。それは千差万別です。しかし多くの共通点があることも確かです。

 

何か、ほんの何かの一助になればという思いもある一方、ただ単に私自身の毒吐きの場になっていることも否めません。

 

多くの人に読んでもらおうということではなく、つらくつらくただつらく永遠につらいのではとインターネットを見ている人が、たまたまこのブログを読んで、あぁこんな人もいるんだなと思ってくれることを少しばかり願います。

 

何か声かけをしたい場合はTwitterの方がリアクションは取りやすいと思います。

 

よろしくお願い申し上げます。

自死遺族は仕事が限られる それは生きる範囲も限られてしまうという話

大切な人の自死の衝撃は計り知れない。

まして第一発見者になってしまえばその衝撃は悲しさや喪失感だけでなく、物理的ではないのだけれど、表現としては物理的なダメージを心身に受けるといった表現が近いかもしれません。

 

どんな人でも、日常生活でいきなり死んだ人を見ることなどまずありません。

事件、事故等で目撃してしまった人は、大きな精神的ダメージを受けます。

そしてそれが身内や知っている人ならダメージは深刻極まります。

 

大切な人の突然の死は、その人が今まで積み上げてきたさまざまものを一瞬で崩します。

人生観、肯定感など180度一変します。

 

人生観が変われば仕事感も当然変わります。

もう一生懸命生きる必要性を感じなければ、仕事へのモチベーション低下は当然です。

看護や介護も、人の命のお世話をする仕事に対しても疑問を持ったりしても不思議ではありません。

 

警察や消防など、人の死の現場を目の当たりにし、さらに自殺現場にも駆けつけなくてはいけない職業は、過酷そのものです。常にフラッシュバックのきっかけがあるのですから。

 

医療従事者としての看護師、そして医者も、人の命を救うために懸命に処置し、そして経過観察をするのに、患者の自殺、無用とも思える延命処置など、患者の自殺は別としても今まで疑問を感じなかった医療現場に対して不信感が芽生えるかもしれません。

 

鉄道関係者でも、飛び込み現場を目撃する可能性は少なくなく、またその清掃やお客様対応をしなければなりません。

 

これらの職業従事者が大変なのは、自殺現場や命の前線で活動している場合、一緒の働いている、活動している同僚たちの無意識の言葉たちです。

 

「なんで必死に命を救っているのに、自ら死ぬやつがいるんだよ」

「生きたい人が一杯いて、生きるために日々戦っている人がいるのに何で自ら無駄死にする人間がいるんだ」

「いっぱい飛び散って悲惨だね」

「最期にあんな姿で死んでいくなんてなんのために生まれてきたんだろうね」

「そんなふうに死ぬんならせめて臓器提供できるように死んでほしいね」

「命の無駄遣い」

 

こんな声が現場ではわんさか聞こえます。

もし大切な人を自殺で失っていたら、この現場の声の中で働くことは地獄です。

 

現場ももっと慎重な発言をするべき。と思う人もいるかもしれません。

もちろん遺族や第三者の前ではこのような発言は決してしません。

してしまったら大問題です。

 

しかし身内で話す言葉は違います。それはどこだってなんだって同じはずです。

そしてこれは「二次受傷」防止のために大切な事でもあるんです。

「二次的外傷性ストレス」ともいいます。

「代理受傷」、「共感性疲弊」、「外傷性逆転移」ともいいます。

ある程度文字の外観で意味が把握できると思います。

 

これらの防止策には、思ったことを率直に話し合い、暴露し、内に溜めないということが重要になってくるのです。

 

命の現場で働く人が、命の事で疲弊しきってしまっては仕事になりません。

命の現場で働くからこそ、命に対して思ったことを率直に話せる場が大切なのです。

しかもなるべく早く、速やかに、です。

 

つまり職員の心の健康を守る手段でもある方法に対し、その中に自死遺族がいれば地獄そのものなのです。みんなが自殺に対しての本心、ダークサイドとも言える本音を暴露しあうのですから。

 

自死遺族が命に携わる仕事をすることはとても大変です。

命に近ければ近いほど、その傾向は強くなります。

 

すでにそこで働き、生活の基盤を置いていた時、その自死遺族にとっては地獄のような日々が待っています。

養う家族がいたら尚更です。

 

もちろん、それでも人の命を助ける仕事に携わりたいと日々頑張っている遺族の方もいます。それでもしかし大切な家族が自殺した経験を持っていると、何気ない職員同士の会話で酷く傷つくことは少なくありません。

 

人の生死を見るより、その同僚たちの言葉が一番つらいということは往々にしてあります。

 

しかし生きている中で、自死遺族がそういった言葉に遭遇することは多くあります。

通勤通学での人身事故。

会社、学校でも知り合いの自殺。

ニュースでの自殺報道。

そして何気なく見ていたドラマや映画での突然の自殺シーン。

 

そのたびにその事実に傷つき、そしてそこで発せられた言葉にも傷つきます。

 

 

 

 

 

「迷惑」って一体なんなのだろう?

子供の教育方針で「迷惑をかけない」ということを言う人が多くいます。

とにかく人様には迷惑をかけるなと。

 

でも「迷惑」って一体なんなのだろう?

人が嫌がること?

公共のルールを守れないこと?

 

でも人が嫌がることってあまりに抽象的でわかりません。

しかも人によって嫌がることは変わってきます。

 

煙草の煙は臭いし体に害があるから迷惑と言いますが、では香水はどうでしょうか。

その人にとっては心地いいかもしれませんが、強烈な匂いを不快に思い、また体調を悪くする人もいるでしょう。

 

私は目の前で納豆を食べられるとともて嫌です。

幼少期にアメリカにいたからか納豆の匂いにいまだに慣れません。

アメリカ人でも納豆を好きになる人はいますが、たいていの人は最初はその匂いに驚くに違いありません。

私はしばらく食べ物と認識できないくらいの衝撃を受け、目の前で食べられると一切の食事ができないくらい体が拒否していました。

 

私にとってはとても迷惑でした。

 

公共施設でのベビーカーはどうでしょうか。論争がいつでもでてきます。

きっと赤ちゃんは抱っこできるのに大きなバギーで混雑している駅を使うことが多くの人も癇に障るのでしょう。

たしかに我が物顔で、「こっちは子育てしてるのよ」と言う顔で爆走しているベビーカーもあり、それに一回でも出会った人は以後ベビーカーの印象は最悪になるでしょう。

 

話を戻します。

例えば電車内での化粧は迷惑行為とされています。

確かに見てて不快です。これを肯定する人は、隣でおじさんが鏡を見ながらピンセットで髭を抜いていても不快とは言っては駄目ですね。同じ身支度の行為でどちらも直接誰かに迷惑はかけていないのですから。

 

ご飯をくちゃくちゃ食べる人がいます。

行儀が悪い行為です。日本では肘をついたり犬食いも行儀が悪い行為です。

そして行儀が悪い行為は公の場では多くの人を不快にします。

つまり行儀が悪いことも迷惑行為に繋がります。

「迷惑をかけるな」とは、このような礼儀作法も正しく行わないといけません。

 

他者のマナー違反に対して厳しく追及する人もいれば、人は人と目くじらを立てない人も多くいます。

 

当然各自治体の条例で制定されている迷惑防止条例に違反すると処罰されますが、これはほぼ法的にギリギリの行為です。法的にはグレーなので各自治体で条例を制定しているです。

 

東京都の迷惑防止条例の場合は、「ダフ屋行為」「つきまとい」、「座席等の不当な供与行為」、「粗暴行為(ぐれん隊行為等)」、「押売行為等」、「不当な客引行為」、「ピンクビラ等配布行為」が迷惑行為として定められています。

違反した者には、「六月以下の懲役又は五十万円以下の罰金」が科せされます。

公衆に著しく迷惑をかける暴力的不良行為等の防止に関する条例

 

英語で迷惑は、「trouble」、「annoy」、「bother」、「nuisance」、「irritate」 が当てはまります。しかしこれらは日本語の迷惑を表すというより、問題を起こす、苛つかせるなどの意味になります。

 

しかし「他所様に迷惑をかけるな」というものはもっと基本的なことを言っているのでしょう。そしてさらに日本独自の空気を乱すな、和を乱すなと言う意味が多分に含まれているはずです。

 

相手次第で「迷惑行為」というものは際限なく広がっていきます。

テレビのお笑い番組ですら、下品、いじめを助長する、暴力的で子育てに迷惑だとクレームを付ける時代です。そのクレームもテレビを楽しんでいる人たちにとっては迷惑以外の何ものでもありません。

 

 日本での「迷惑」とは、「相手を思いやる」とは似て非なるものです。

相手ではなく、「自分が嫌だから」というあくまでも自己中心的なものだと思います。

だからとにかく相手の非ばかりを叩く。自分の非はごまんとあるのに、あたかも自分は聖人君子であるかのように。

 

「他人に迷惑をかけるな」

これは自分は迷惑はかけているが(認識なし)、とにもかくにも第三者がかける迷惑は絶対に許すまいという精神へと変貌しているのです。

 

自分も誰かの迷惑に必ずなっているのだから、他者の迷惑にはなるべく理解を示そう。

こっちのほうが真のような気がします。

 

空気は読み取るのに他者の思いへの想像力乏しい日本人には無理かもしれません。

 

 

自死遺族の先輩

先輩後輩という概念が強い日本。

とにかく年功序列で、ただ年だけが、年数だけが長いだけで、たとえ能力に欠けていたとしても威張り散らす人が多い日本。

 

そんな先輩後輩を自死遺族にあえて持ち込んで、私が感じたことを書いて見たいと思います。

 

自死遺族の会に参加した当時の思い。それはひとえに元気になって活き活きしてて、

 

「確かにあの出来事はあまりにつらく地獄のような日々が続いたけど、今はそれも糧にして強く逞しく元気に幸せに、あの人の分まで生きています」

 

という言葉を求めていました。

だってあんな経験をしても、その先5年も10年も生きているなら「生きる意味」を強く見出しているはずと信じて疑いませんでした。

 

しかし遺族の会に参加した私は打ちひしがれました。

あの日の思いは1ミリも減ることなく、乗り越えるでもなく、悲しさが癒えたわけでもなく。

 

自死遺族になったばかりの私となんら変わることのない気持ちを何年も何年も抱きながら先輩遺族の方達は歩んでいました。

 

この思いをずっと抱えながら生きていくなんて無理だ。耐えられるわけがない。

 

そんな思いでいっぱいでした。

ただ遺族の会で知り合ってとても良くしてもらった人と個人的な交流をするようになりました。

 

私より20歳くらい上の男性で、20歳前後の娘を亡くした人でした。

私は似ているわけではありませんでしたが、父と近い年齢ということもあり勝手に重ね合わせ交流させてもらいました。

 

お酒を飲みに行ったら話をしに喫茶店に行ったり。

その中でどう悲しみを抱え、どう生きているのか少しだけ知り得ることができました。

 

悲しみは小さくならないし、あの日の記憶が風化することもないけれど、それを内合して生きていると知りました。

 

その人とは今でも交流がありいくつかの遺族の研修会に共に参加し、そして遺族会の立ち上げを手伝わせてもらいました。

 

その人はいつももう夢も希望も何もない。ただ生きているだけ。その中で遺族のために動ける範囲で動いているといつも言ってました。

 

あなたが求める幸せや希望はないのですかと事あるごとに聞いてましたが、その答えは一貫して変わることはありませんでした。

 

そしてその人はいつも

 

「若い遺族は大変です。仕事も働き盛り真っ只中で、これから結婚や子供など人生のイベントがわんさかあり、それを実行するのにしないのも大変」

 

と私に言ってました。私もいつもその人に、

 

「いや、あなたもあなたより年上の遺族がいて、その人からしてみれば、あなただって若くて、その年で人生終わったように達観するのは早いって言われますよ?」

 

と言ってました。

 

各個人の遺族がどう生きようが自由です。

酷な言い方ですが、後追いをしてしまう気持ちも理解できます。

背負ってずっと生きていけなど誰も助言できません。

ただ、ただ人生の予測は誰にもできません。

あの人の自殺という大事さえも予測できなかったのだから。少しは予測できていたとしても、止められなかったのなら同じです。

 

人生はどう転ぶかわかりません。

誰もが放棄するには人生、若すぎます。

幸せになる可能性は誰も微塵も否定できません。

たとえその人が望んでいなくても。

 

私はそのことを自死遺族になったばかりの人に伝えたいです。

 

また死のうとしている人にもです。

 

人生はどの可能性だって一切排除できません。

何か一丁前に達観して物事を断定するのは何事もよくないと私は思っています。

 

だって自分が信じていた「絶対」や「信念」、「希望」、「価値観」など一つの出来事で一緒で真逆に変わってしまう事もあるのですから。

 

自死遺族なら、大切な人を突然亡くした人なら知っているはずです。

人生は一緒で変わってしまうと。

 

でもそれはいつだってどっちの方向に行くかなんて誰にもわかりません。

 

早くに自死遺族になった人には特に言いたいです。人生を捨てるにはまだ早すぎると。

 

幼い我が子を、若くして親を、兄弟姉妹、恋人、友人。

誰を亡くしても人生に絶望してしもおかしくありません。絶望してしまうくらい大切だったのだから、絶望する方が自然。

 

絶望は続かない。幸せは絶対にくる。なんて綺麗事を言うつもりはありません。

 

それでもなお、人生は誰にも微塵も予測はつきません。それはだけは「絶対」です。

 

それなのに「もう何も変わらない」ということを絶対に信じるのは「絶対」におかしな話です。

 

わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい自分で守れ

ばかものよ

 

 

 

 

 

信じるものは救われない社会。

本当に本当につらくてつらくて。 そんなとき人は誰でも藁にもすがる思いで、目の前に差し出された手に飛びついてしまうことはあるはずです。

 

やはりり弱った心では正常な判断はできません。

もしそこに精神安定剤とか飲んでたらほぼ思考は働きません。

 

甘い罠が張り巡らされた手口にまんまと引っかかってしまいます。

私も絶対にないようと強く信じてましたが、本当に些細な手口のメールに引っかかりそうになました。

「当選しました!」なんていう内容でした。 今考えてもありえないですし、当時も頭がはっきりしていれば引っかるはずのないものでした。

しかし弱った心では本当に思考停止してしまうのです。それは自殺の一つの原因になることさえあります。

 

「なることさえ」ではありません。ほとんどの自殺が結局正常な判断が下せなかった結果の中での本人の判断なのです。

 

最近、ネットでまとめサイトの記事がネットのあちこちの情報をパクって切り貼りして、画像も無断で使って、著作権もなにも無視した盗用がはびこり問題になりました。

 

そして次々大手まとめサイトが閉鎖される自体になっています。

問題は無盗用だけでなく、その内容です。

切り貼りした何のメッセージ性のない文字の羅列の中に、健康や命に関わる記事があり、その記事がgoogleの検索でトップに出てきてしまうという自体が起きてしまいました。

 

肩こりがひどい人は、霊が取り付いているかもしれないからお祓いをしましょうなどという記事もトップに上がってきていたそうです。

 

本当に切実に悩んでいる人にとっては、googleでトップに上げってきているような記事なら信憑性が高いのでは、と思い信じる人もいたかもしれません。

 

そして次のようなTwitterが多くの注目を集めました。

「死にたい」

そんなワードで検索する人がたどり着くサイトが上記のTwitterの通りの内容になっていたとしたら、それはもうあまりに極悪非道です。

 

それで金儲けをしようとしている大企業。

そんな大企業「DeNA」は言わずと知れた横浜DeNAベイスターズのオーナです。

子供たちも夢見る野球選手。

そんな野球チームを有する健全であるべき企業が、記事をパクリを指導し、命にも関わる切実な問題の多い医療系の情報にも責任を持ちませんというスタイルで次々と掲載し、さらには「死にたい」と自殺リスクの高い人に対しても、金儲けの切り取り継ぎ接ぎのコピペ記事を乗せ、google検索トップになるようにSEO対策をばっちりして、そしてアフィリエイトで金を儲ける。

 

まさに鬼畜の所業です。

 

切実な健康問題は人の生死に直結します。

「死にたい」というのも心の健康の問題です。

霊がついているとか、転職サイトに誘導させたりとか。

 

それ以外にもあの手この手で、弱っている人をターゲットにする罠は張り巡らされています。

宗教やネットビジネス、自己啓発セミナー。

まさか自分に限っては、なんて思わないことが大切です。

心が弱ればその判断力が著しく低下するのです。

 

今持ち合わせている判断力ではないのです。

 

ネットの情報はまず信用しないことが重要です。

信頼おける情報が欲しいときは、検索のしたワードのあとにスペースを入れて「ac.jp」といれると大学機関の論文や情報を得ることができます。

またGoogleスカラー検索を行えばさまざまな論文で調べることができます。

 

私はとりあえず本を読みます。

図書館で借りられるだけ借りてきます。

誰が書いたか名前が出ているだけで、内容の責任がある程度発生します。

 

ネットの誰がどこでいつ書いたかもわからない情報を鵜呑みにしてはいけません。

もちろん私の記事もTwitterです。

 

自死遺児に成りすましているかもしれません。

リアルな体験話しは、いくらでも本やネットから収集できます。

 

企業に倫理なんてないんです。

船場吉兆ですら、昔ながらのお得意さんを相手に食品偽装する時代です。

雪印とかもそうですね。

 

信じるものは救われないのです。