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悲しみは海より碧く、深く〜suicide story〜

父の自死。私の人生。新たな命。苦悩、喜び、葛藤、そして生きるということ、死ぬということ。

「ご自愛ください」の言葉に含まれる意味

「ご自愛ください」

自死遺族になってはじめて言われた言葉で、私もメール等で使うようになった言葉。

 

はじめて言われたのは、遺族会で知り合った遺族の方からでした。

(※厳密にはその前からSNSでは交流はありました)

 

とても違和感がありました。

第一に、全く聞き慣れない言葉だったからです。

言葉の意味合いはわかりましたが、私の人生の全く無縁の言葉でした。

会社でも仲間内でも、祖父母絵の手紙でも使うことはありませんでした。

読書が好きな方ですが、そこでも目にした記憶はありません。

かと言って初見というわけでもなく…。

病人などに使う言葉なのかなぁという程度の認識でした。

筆不精の私には縁がなかったのでしょう。

 

不思議な言葉です。

 

自死遺族の多くは自責の念にさいなまれる傾向があります。

大切な人を守れなかったと。

救えなかった無念さ…。

 

これは人命救助の前線のプロフェッショナルな隊員でも、全くの他者に対しても抱く感情で、とても深刻な影響をあたえる場合も少なくありません。

 

それは愛する人であれば強烈な感情として残るのは当然です。

そしてそれは自分を責める原因となります。

 

一緒に死んでしまいたい

なんで私は生きているんだろう

なんであの人は笑っていられるのだろう

なんで朝が来るんだろう

なんで地球は回っているんだろう

 

みんな消えてなくなればいいのに…

 

そんなことを私は強烈に思っていました

色の全くない灰色の世界で。

 

そんななかかけられた「ご自愛ください」。

違和感とともに、そんなご自愛する必要のある自分自身なんて1ミリもいないことにあらためて気づきました。

 

もうどうなってもいいと自暴自棄でした。

夜はお酒は浴びるように飲み、タバコを吸い続け、処方された薬は用法用量を守らず、身体を痛めつけるように走り、鍛え…。

 

そんな私に「ご自愛」など全く対極の位置にいました。

 

あなた自身の大切な体なのだから大事にいたわってください

あの人のぶんまで生きるためにも健康でいてください

世の中にはもっと苦しんでいる人がいるんだから元気に前を向いて頑張って生きて

あなたを思っている私がいるから、元気でいたてください

 

私が今のところざっと考えられる「ご自愛ください」に含めれている意味はこの程度です。

 

その人がそんな意味をこめて言っているのかはわかりません。

きっと人それぞれ千差万別の意味をこめているでしょう。

 

使うにしても、私なりの意味をしっかりこめて使いたいと思っています。

使うことはまずないと思いますが。

そして相手が使う場合は、時候の挨拶ていどにお決まり文句だと思い、深く受け止めないこととしています。

 

遺族の人では、私も過去はそうでしたが、恐ろしいほど言葉に敏感な場合があります。

それは当然仕方のないことです。

傷口が新鮮であればあるほど、グチュグチュで触ると痛いものです。

カサブタにならなければ見るだけで痛いのです。

 

言葉に敏感で、刃のない言葉でも刃として受け止めてしまうのです。

今となれば「自死」も「自殺」も私はどうでもいいです。

 

病気で死んだのだから、自らの意思とは違い追い込まれ正常な判断がつかなかったのだから「自ら殺した」のではなく、ある種の病気で死んだのだ。だから「自殺ではなく自死」。

私もそう声高に叫んでいたことがありましたが、今となってはどうでもいいです。

そんな言葉尻をとらえて話し合いたいことなど微塵もありません。

 

「障害者」も「障がい者」も「障碍者」もくだらなすぎです。

障害を抱えている人が障害者でありその人自身の存在が障害なのではありません。

総意味合いで言っている人がいれば、せめてその人に噛み付けばいいものの、「障害者」という言葉尻に噛みつき、不適切だなんて声高に叫んでいる人は、どうなんでしょうか。

 

話が逸れました。

「ご自愛ください」

あなたの体を大切にしてくだい、健康に気をつけてください

それだけのニュアンスで使うことが多い言葉で、きっと深い意味もないでしょうし、

深い意味をこめて使うこと人も少ないでしょう。

 

でも、私は使う場合も受ける場合も違います。

深く受け止めてない場合でも、一旦考えます。

使う場合も一旦考えます。

 

言葉って難しいですね。

難しいからこそ、深く味もあり、色んな思いをこめられます。

虹のような日本語。

使いこなせていないですが、味わい深く大好きです。

 

 

 

 

 

 

 

大切な後輩の自死

私は父以外にも、親しかった後輩も自死で亡くしました。

 

父の自死から2年後くらいでした。

私が部活に勧誘し、私のもとで育った後輩でした。

 

とても生意気で、態度もでかく、口の利き方も悪く。

しかし礼儀を守るべきところではしっかり守り、先輩を立てるときにはしっかり立て、裏表のないとても気持ちのいい後輩でした。

 

彼が自死したのは彼が卒業して4年後くらいでした。

派遣で働き、正社員になれるという約束のもと頑張っていたのに、その約束を反故にされ打ち拉がれ命を絶ったという話でした。

 

私が卒業してからも、後輩が卒業してからも、部のOB会で年に1回は顔をあわせお酒を酌み交わしていました。

そんな後輩から、そういった類の相談は一度もされたことがありませんでした。

 

学生時代は何でも話してくれ、主将であった私によく相談に来ていました。

 

そんな後輩の訃報。

そしてこれは部には公表せず、部内でも監督と数人の幹部しか知らせないというものでした。

 

向こうの親の要望もあったとのこと。

葬式も密葬だったので誰も行くことはできませんでした。

 

後輩の死は、何一つ実感のないまま、後輩がいないという状況だけが続いているのです。

部のOB会は相変わらず年1回あるので、どうしてあいつが来ていないのかと知らない部員は疑問を持ちます。

 

死んだことすら知らされていないのです。

全てを内密にし、彼の生き様自体を隠す。

 

最後には苦しみ、不覚だったかもしれない自死

しかしそれだけで彼の生きていた証が抹消されている。

それはともて苦痛です。

 

誰からも人気があり、彼は自身の後輩からもとても慕われていました。

誰もなにかを憚って口にしない。

 

思い出としても話せない。

人は思い出の中からも消えてしまったら、それが本当に死なのだと思います。

 

私は彼の話をしたい。

飲みながら昔話に花を咲かせ、とことん仲間たちと涙を流したい。

 

未だに彼の屈託のない笑顔が忘れられません。

 

 

悲しみは続〜くよ〜、ど〜こま〜で〜も〜♫

悲しみは消えません。

それは何年経っても消えることはありません。

 

とき薬なんてありません。

いえ、効くものと効かないものがあると言ったほうが正確かもしれません。

 

人は忘却する生き物だからこそ、生きていけるですが、忘却できないものも確かに存在します。

 

ただし痛みに耐えることに慣れることはあるのかもしれません。

あの日のことを思う浮かべると、また不意に襲ってくると未だに衝撃が強く、一気に不調街道まっしぐらですか、それも当初よりはだいぶ減ってきました。

 

それは悲しみが薄れたのではなく、痛みに疼いている自分が日常の中で当たり前になっているのです。

 

あの日から全ての感情は麻痺し、ただただ痛みや辛さにだけ敏感になっていましたが、時が過ぎていくうちに、感情の麻痺は取れてきます。

 

痛みや辛さは変わらないのですが、季節の移り変わりや日常のある意味での幸せを感じることはできるようになってくるのだと思います。

 

ただしふと幸せを感じた瞬間、猛烈な罪悪感にさいなまれることは多々あります。

罪悪感でなくても、幸せ感じたことで、それを共有したかったという願望が強く沸き起こり、結局悲しみの刃が研ぎ澄まされることもあります。

 

でもこの悲しみの深さこそが、この悲しみの継続こそが、あの人への想いの現れだとも思っています。

 

生きていて無駄なことなんてありません。

そして意味もなにもありません。

 

明日美味しいチョコが食べられたらいいな。

それだけで明日のことは十分です。

 

 

突如あの日からできた、今までになかった「死」という選択肢

誰もが一度や二度、死にたいなぁなんて思ったことはあると思います。

思春期の頃なのか、青年期のときなのか、それは人さまざまです。

 

恋でなのか、

親や兄弟との喧嘩なのか、

友だちとの喧嘩のか、

学校でのいじめなのか、

テストの点が悪くて親に見せたくなっかたからなのか、

翌日、予防接種があるからなのか、

バイトをバックレてしまったからなのか、

就活全敗だったからなのか

はたまた幼少期に読んだ宇宙やお化けの話を思い出し、寝る前になぜか漠然と「死」というものを意識したからなのか。

 

「死」は別に特別なことではありません。

多くの人は深い浅いは関係なく自然に感じるものです。

 

順番というものがあるのだとすれば、祖父母の死を経験するでしょう。

一緒に住んでいればその「死」はより身近に感じるはず。

 

地方にいれば、たまにあったときのあの優しい笑顔が見られなくなるという喪失感、自分の生活圏にいなかったから実感がよりわかない感じがあるかもしれません。

 

小さい頃からずっと一緒にいたペットも「死」をより身近に感じさせてくれます。

ペットは死にから嫌なんだよなぁという言葉はよく聞きますが、しかしそのペットが与えくれた幸せ、ともに歩めた人生はかけがえのないもので、人生の活きる糧にもなります。

 

しかし「死」がより近い人のものであればあるほど、それが理不尽だったり唐突であったりすれば、人はその死を受け止めきれない場合も往々にしてあります。

 

それが「自殺」だったなおさらです。

大好きだった人が、あんなに愛おしかった人が自ら死を選んでします。

否定や拒絶を繰り返しながらも、その人自身の存在や生き様は否定できるものではありません。

 

そうなるとあの人が選んだ「死」というものにも、納得はできなくても理解しようという気持ちが生じることは不思議ではないということです。

 

そうなると、自分の中の、選択肢の中にも「死」というものが鮮明に沸き立ってきます。

それは「自殺」したいとかそういう願望のことではありません。

いえ、どっかに願望があるのかもしれません。

あの人に一刻でも早く会いたい、

こんなつらい人生、世の中ならばいっそあの人のところにいきたい。

そんなことを潜在的にも思っているのかもしれません。

 

でも明確に「よし、死のう!」となるわけではありません。

なんというか「死」といものがより近く、身近で、そして選択肢に「死」がやはりあるのです。

 

いざとなったら「死」があるんだ。

これも誤解なきように、「死んでやる!」というニュアンスではありません。

結局人は遅かれ早かれ死ぬんだから、という感覚です。

 

人生は壮大な暇つぶしという喩えがありますが、暇つぶしにしてはハードすぎます。

でも死ぬのだから、そう気張っても仕方ありません。

 

なにもかも嫌になって投げ出したくなったら、投げ出せばいいんじゃないですか?

投げ出したどうやって生きていきばいいの!?なんて思っているうちは、まだ十分「生」への執着があるからいいのではないでしょうか。

 

あの人を、あの子を、あの状態を残してなんていけない、なんて思っているのならまだまだ生きる源があるのだと思います。

 

だって、あの人はそんなのがあっただろうに、なにもかも投げ捨てて突然逝ってしまったのだから。

 

死という選択肢があるからこそ、生が浮き立って見える今晩でした。

 

 

 

 

コンビニ人間

2016年、第155回芥川賞を受賞した「コンビニ人間」著村田沙耶香

遅まきながら、読んでみました。

 

小さい頃から人と違う感性を持ち、それを出してしまうと周りから異物として見られてしまう女性の話し。

 

小学生のとき、喧嘩していたクラスメイトを「誰か止めて!」という声で、喧嘩した一人の頭を後ろからスコップで殴りつける。

「だって止めろって言うから止めたのに…。なにがいけないの?」

 

公園で小鳥が死んでいた、友だちたちがかわいいそうと悲しみお墓を作ってあげようと話している時、主人公はその鳥手に持ち、公園で座っていた母親とのところに行き、

「これ美味しそうだから、焼いてお父さんにあげよう」

と提案する。

 

母親はぎょっとす。「鳥さん、かわいそうでしょ?みんなとお墓作ってあげれば?」

 

「焼いたら美味しのになぁ…」

そしてお墓を作って、花をむしり取ってその花の死骸をお墓に備えている光景のほうが奇妙に見えた。

 

他者から世間では当たり前という価値観と葛藤し、自分を押し殺しながら生きていた主人公がコンビニというバイトで、やっと社会の歯車の一つになれたと実感する。

 

制服を着て、コンビニの店員を演じることでやっと社会に認められる。

しかしそれも十数年も働いていると、また変わった人と見られてしまう。

就職、恋愛、結婚。

周りは価値観を押し付けてくる。

 

主人公は、ある男と同棲しはじめる。

そして主人公は他者を通して自分を再認識し始める。

 

 

主人公が強い違和感を持ってどう生きていくという話し。

少しサイコパス的な印象が強い主人公。

 

誰もがある種の自分自身を押し殺しながら生きています。

そして無言の圧力の価値観を強いられます。

 

社会の歯車になることを望まない人が多くいる一方、

社会の歯車になれないと嘆く人も大勢います。

 

社会の歯車になれるということは、ある意味その社会では認められ活かされ、生きていくことが堂々と許される世界なのかもしれません。

それがコンビニ店員であっても何の問題もないはず。

 

私も、社会の歯車になりたくない、と思う一方、

でも社会の構成員は社会の歯車であり、

構成員から除外されがちなマイノリティではあまりにも生きづらく。

 

かといってもうマジョリティには戻るすべはなく…。

 

きっと死んだときだけが人が全て平等になるときだと思った次第です。

今更感がありますが 清水富美加の出家について思うこと。

もうだいぶ下火になりましたが、先日までゴシップメディアを賑わわせた「清水富美加 出家問題」。

headlines.yahoo.co.jp

 

 

芸能ニュースに果敢に飛びついていこうという気は微塵もありませんが、

この出家騒動には少し思うところがあるので、ブログで取り上げます。

 

そもそもこの出家騒動の大きな問題は、清水富美加さんが突如出家し芸能界を引退すると宣言したことです。

 

正式には芸能界を引退するのではなく、出家先の幸福の科学のもとで芸能界をするということです。

 

余りに突然だったので、映画やテレビ番組などの仕事関係に大きなダメージを与えてしまいました。

主演の映画公開や撮影中の映画もあり、関係各所てんやわんやとのことです。

 

一人で芸能活動をしているわけではなく、所属事務所はじめ、共演者やスポンサーなど大勢で協力してい一つの番組や作品を作り上げるので、会社の一つの歯車とは違い、その本人にしかできない仕事を放棄するのですからその責任は余りに重大です。

 

一説には1億円以上の違約金を請求させるのではという情報も出ています。

 

さて、ここまでがゴシップネタですが、果たして彼女の選択はどうだったのでしょうか。

 

もし彼女が本当に追い詰められながら仕事をしていたのなら、そして真摯に相談できる事務所関係の人もおらず、それに相反し人気がうなぎのぼりで仕事が次々舞い込んできて、契約期間のその先にも実質どんどん仕事が舞い込んできて二重にも三重にも仕事が重なったきていたなら、彼女自身が適切な辞めるタイミングを見極めるのは相当困難だったと思います。

 

心身消耗状態で仕事が次々と舞い込んできたらもう逃げるしか方法はないのではないでしょうか。

きっとよりベターな選択肢はあったかもしれませんが、ベストなタイミングなどは存在しなかったかのではないでしょうか。

 

そうやって逃げられない人が、最後は死ぬしかないという道を選んでしまうのが現代社会です。

学校でのいじめ、仕事先でのパワハラや労務違反など、閉鎖的な村社会の日本では、一度その村に入ると簡単には出てこれません。また出ることを悪とします。

 

この閉鎖的な村社会、全体主義の日本で追いつめられた時、命以外の何もかもをかなぐり捨て逃げないといけない場合は往々にしてあります。そうでなければ命をかなぐり捨ててしまうのです。

 

宗教の自由は憲法で保障されているので、彼女が逃げの場所を宗教にしたのは誰も責めることはできません。

しかし彼女の両親が信者で生まれたときから信者だった彼女が、本当に彼女の意思で選んで宗教の道を選べたのか。様々な世界や考え方、宗教観を持ち多角的に判断できたかは疑問です。

もし幼少期から、信仰に背いたら罰があるなど埋め込まれていたら、もはや悪質な洗脳です。しかし宗教とは得てしてそういった側面を持っています。

 

私の知り合いでも片方の宗教のため婚約破断した人もいました。

あなたは入信しなくても最悪仕方がないけど、子供は絶対に入信させるなどと逝ったことが問題でした。

 

宗教とは相手の、個人の信仰を認めない部分を大なり小なり持っています。

信じないものは救われない。とても排他的なのです。そうでないものもありますが…、結局は…。

 

また幸福の科学はカルト宗教としての要素も色濃く出いています。

フランスで採択された報告書『フランスにおけるセクト』は、「通常の宗教か、セクト(破壊的カルト宗教)か」を判定する国際的な指針の一つとされています。
この中で、以下のように「セクト構成要件の10項目」を列挙しています。

1.精神の不安定化 (洗脳、マインドコントロール
2.法外な金銭的要求 (多額の寄付金要求)
3.住み慣れた生活環境からの断絶 (監禁、出家など)
4.肉体的保全の損傷 (暴力:精神的暴力も含む)
5.子供の囲い込み (子供の洗脳教育)
6.反社会的な言説
7.公秩序の攪乱
8.裁判沙汰の多さ
9.従来の経済回路からの逸脱
10.公権力への浸透の試み

以上の項目のいずれかにあてはまる団体を、セクトとみなしています。

創価学会は、10項目すべてに該当し、しかも、フランスだけではなく、ドイツ、チリ、ベルギー、オーストリア、アメリカ(議会下院)といった国々でもセクト指定されています。

引用:新興宗教を斬る ~政治と宗教の闇~

 

以下の記事では実際の宗教家に幸福の科学とはについて取材し大変興味深い記事になっています。

rocketnews24.com

 

 

また、彼女が生まれながらに、信者である両親に入信させられ赤子のときから洗脳させられているのはフェアではないという考えには深く同調します。

しかし、ではこの日本社会はどうでしょうか。

 

たしかにネットは普及し様々な情報を統制されることなく取捨選択できるので、一般人は洗脳されていないと思うかもしれません。フラットでさまざまなものの見方をできると思われているかもしれません。

 

しかしそれは本当でしょうか。

果たして本当に日本人はフラットでしょうか。

村社会、全体主義

この国の学校教育、24時間戦う企業戦士を作るための教育、隠蔽と自己保身の公務員、利権と既得権益だけの官僚機構。

だれもが疑問に思うのに、子供には日本の教育制度の中で受験をさせ未だに日本だけにしか通用しない高学歴を追い求め、子供に就かせたい職業、また成りたい職業上位には常に日本人が忌み嫌う公務員という矛盾。

 

安定している既得権益側に回ってしまえばいいと言う浅はかでさもしい思考。

 

普通の家の親でもすでに日本文化の洗脳を受けており、フラットな考えなど持ち合わせていない人が大部分なのではないでしょうか。

それを子供が受け継ぎ、とにかく大手に就職することが人生の安泰だ、成功だと。

そして見事な奴隷になり、ときには過酷な労働に耐えられず命を絶ち、ときには大手企業にも関わらず、そして社員従業員にはコンプライアンス遵守を押し付けている中、隠蔽・粉飾・偽装で巨額な損失を出したり信頼を失い倒産危機に晒されたりと。

 

それでもなお受験は加熱し、いい大学に進み大手企業に入ることが勝ち組の道となっています。はるか昔からこの国の価値観は微塵もアップデートされないのです。

 

話がだいぶそれてしまいました。

 

清水富美加さんが逃げたことはある意味で仕方がなかったのかもしれませんし、それを第三者が責めることはできませんが、関係者はそれで被った被害は賠償すればいいでしょう。

 

微塵もなくった彼女の信用はまた彼女自身が取り戻していけばいいのです。

しかし出家後、すぐに本を出版し、彼女の擁護派は見事に撃沈してしまいました。

 

私も同じです。

結局宗教側に利用されているだけなのかもしれませんが。

 

生きるって本当に複雑です。

生きるとは哲学です。

 

 

ポジティブな人がとにかく苦手、だってそれを押し付けるから

ポジティブな人もいればネガティブな人もいます。

そしてそれは人生の肯定感に繋がりやすくもあります。

 

コップに水が半分入っている状態で、

もう半分しか入っていないと思うか、

まだ半分も入っていると思うか。

 

これでポジティブかネガティブを計るようなことがありますが、とてもナンセンスだと思います。

 

状況の捉え方は人それぞれで、別にどっちに捉えても問題ないのです。

もう半分しか入っていないと思って、手を緩めず全力で取り組む人もいれば、

まだ半分も入っているからと油断して最後に泣きを見る人もいるかもしれません。

 

状況を判断してそれにどう対応するかが大切ではないのかと思います。

意外とトップアスリートはネガティブで不安症の人が多いのも、

彼らは飽くなき探究心と負けん気があり、まだ足りなまだ足りないと努力し続けます。

 

彼らがポジティブで、「まだ全然大丈夫だよ」などと悠長なことを言っていたら、たちまちライバルから突き落とされるでしょう。

 

つまりポジティブかネガティブか、どっちがいいかなんて人生の良し悪しには関係ないのです。

しかし世間の風潮はポジティブにとか楽観的にとかを推奨します。

そのうち「考えない力」などといった文言までもてはやされてしまいます。

フランスの哲学者パスカルが言った「人間は考える葦である」とは真逆です。

 

別にどちらに真理があるとはいいませんが、考えないってことはとても恐ろしいことだと私は思っています。

考えなければ、いじめや自殺、労働問題、その他さまざまなことに無頓着になってしまうと思います。

 

もちろんこの「考え力」とはうじうじ考えて、変えようもないことに悩み疲れ、人生に疲弊してしまうのはもったいないから、考えない時間も作ってリラックスしましょうといった話なのではないかと推測します。(すみません、読んではいないので…)

 

でもうじうじ悩まないってことを考えてどうするか最善の策を見出すのが大事なのではと思います。その試行錯誤こそが人間の成長につながることだとも思っています。

 

ポジティブな人は、ある意味何も考えていないように私は感じます。

想像力が欠如しているのです。

「大丈夫だよ」

「きっと良くなるよ」

「前を向いて生きなよ」

「時間が解決してくれるよ」

「止まない雨はないよ」

 

笑止千万。

あなたの伴侶、親、子供、兄弟など大切な人が死んでもそんなこと言えるでしょうか?

と思っていると、彼ら彼女らは言うのです。

「あの人のぶんまで前を向いて生きないと!」

ということを。

 

いえ、その考え自体は個人の自由、生き方の自由なので全く問題ありません。

しかしポジティブ人間は往々にして人にその考えを強力に押し付けてくるです。

その考えはとても排他的で相手を尊重していません。

 

「ポジティブ」という錦の旗を振りかざし、想像力の欠如を武器に「嫌なことは忘れ、前を向き、うじうじしてても仕方ない」という論調を通すのです。

 

何を言っても彼ら彼女らには通じません。

「あなたの大切な人がどんな死に方してもそんなこと言えるの!?」

などと問い詰めても、響かないのです。まさにポジティブ病です。

 

では、そんな人がどうすればいいか。

近づかないことです。離れられるなら離れるべきです。

ポジティブ病に人の言葉が刃物よりも尖り、氷よりも冷たく、的確に深く、そして何度も何度も傷口をえぐってきます。

しかも最も質の悪い「悪意のない悪」で。

 

まさか自死遺族でそんな人はいないだろうと思う人もいるかもしれませんが、私はそのような人を何人も知っています。もちろん比率としては少ないですが。

 

そして私の毒親のようでもある母もそのような感じがある人です。

とても近くに住んでいますが、ほぼ絶縁状態です。

「あなたが殺したようなものなのに」

そんな思いも沸々と沸き起こってしまいます。

 

ポジティブな人にはできることなら近寄らない。

ポジティブ病の人の発言は一種の宗教地味たものだと理解すること。

ポジティブ病の人は想像力、共感力が欠如していることをこっちが理解してあげる。

 

ポジティブ病に人に無駄に傷つけられるのは避けましょう。