自殺の定義

ごく当たり前に使われる「自殺」。しかしその定義はみな同じなのだろうか。

 

きっと自死遺族とその他では全く捉え方は違うはず。

自死遺族は自殺を「追い詰められた死」と捉え、自殺という文字列を嫌い、「自死」と表現することが多い。

「自殺遺族」という文言は聞いたことがない。

 

当事者でない限り、自殺は迷惑な行為と認識されているはずです。

その理由は自殺に遭遇する機会はほとんど鉄道だからです。

電車で遭遇すれば、予定を大きく狂わされます。

 

多くの人が利用する場は大なり小なりストレスフルであり、学校や会社の行き帰りで憂いや疲れの中、人身事故に遭遇すれば誰だって尋常ではないストレスがかかるのは当たり前です。

 

日々の慌ただしいなか、予定が大きく理不尽に狂わせられれば、鉄道自殺者のバックグラウンドに思いを馳せることは困難です。

 

また一つの人身事故で何万もの人に影響を与えるので、「自殺は迷惑」というインパクトは大です。

しかし実際の自殺手段の割合は、「鉄道自殺」は全体の3%程度です。

6割以上が縊死(首吊り)です。

 

一日60人程(内7割が男性)が、自殺で亡くなる日本。

鉄道自殺は1日1〜2人です。

40人近くは縊死、自殺の場所は60%が自宅。

 

出典:「平成 28 年の自殺の状況」 厚生労働省

https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/jisatsu/17/dl/1-6.pdf

 

ほとんどの人は、誰にも(第三者へ、という意味合いで)迷惑をかけずひっそりと亡くなっています。

 

 

またよく聞く文言で、

「死ぬ勇気があれば、なんだってできる」

という言葉。

 

死ぬのに必要なのは勇気や強い意思、実行力ではなく、逃げることのできない絶望感や虚無感で、多くの場合は正常な判断能力がなく、不眠等を含めた精神的な不調があります。

 

自死遺族はこれを誰よりも理解しているはずなのに、

「私はあなたみたいに逝く勇気がない…、ホント情けない」

などという発言も…。

 

死ぬ勇気があるなら、いじめも打開でき、ブラック企業もスパッと退職でき、パワハラ等からも脱することができると、思っている人も少なくありませんが、長い間理不尽に削り取られ、心のエネルギーが枯渇した心身には、そもそも「勇気を振り絞る」などはないのです。

自殺を個人の努力のみで打開できるという捉え方は誤りです。 

 

自殺は、「自ら死ぬことを予見し自らの意思で命を絶つこと」なら、自ら死ねないゆえ人を殺し死刑を願い、死刑になった人はどうなのでしょうか。

 

タバコやお酒で体を害することは緩やかな自殺と言われることもあります。

では健康に気をつけなければそれはすべて緩やかな自殺なのか。

健康のために運動しなくてはと思いながらも運動しない行為は緩やかな自殺なのか。 

安楽死尊厳死は自殺なのか。

 

自殺が積極的なのか消極的なのか、はたまた直接的なのか間接的なのかで定義や認識が変わってくるということです。

 

「自殺」の定義で難しいのは、人は誰もが死に向かって生きており、確定的に「死」に繋がらなくても、タバコや酒、運動不足など死に近づく間接的な行為を受諾しているからなのではないでしょうか。

 

積極的な「生」以外、すべて「緩やかな自殺」に繋がってしまい、そもそも人が生きるということは一寸の狂いもなく死に向かっているものであり、生きていくこと自体ある種の「緩やかな自殺」と常にリンクしているのではないでしょうか。

 

積極的か消極的か、は関係なく。

鉄道自殺で縊死でも結果的に死んでしまったが、もしかし最後の瞬間まで「消極的」だったかもしれません。

 

「死」を考えることは、「生・命」を考える表裏一体です。

あなたは「なぜ死んだの?」は、私は「なぜ生きるの?」と一体です。

この問は、つまりそれ自体ですでに哲学なのでしょう。

 

あなたの自殺の定義とは? 

あなたの生きるの定義とは?

 

下記は学術論文からの「自殺の定義」の孫引きです。

なるほどな、と。

精神科医の加藤正明は自殺を次のように比較的厳密に定義している。「真の自殺とは,ある程度成熟した人格をもつ人間が『自らの意志に基づいて』死を求め,自己の生命を絶つ目的をもった行動をとることに限らなければならない」とし,自殺を図る人がその行為を自ら起こし,かつその行為が死をもたらすという現実を予想する能力があることが自殺の定義に必要であるとした。

加藤は同時に,「自らの意志によらない制度的自殺やある種の精神病の自殺,未熟な児童や動物の自殺と,厳密な意味での自殺との違いは,ときに移行する段階的な違いであって,中にはどちらとも決めかねる境界の事例も少なくない」とも述べている。

 

稲村博はこの点に注意を払い,自殺を次のように定義した。「一般に自殺意図 の明確な者は自殺者のうちでも意外に少なく,意志統御の混乱がむしろ彼らの 特徴ですらあるからだ。そうした点を考慮すると,客観的な規定を原則とする のが望ましく,その範囲で特徴別にさらに分類するのが妥当のように思われる。 (中略)自ら自己の生命を絶とうとする行為を自殺行為(または自殺企図)といい,結果として死に至ったものを自殺既遂(または自殺),死に至らなかった ものを自殺未遂と呼ぶ」。

 

自殺研究の先駆者である社会学者のエミール・デュルケームの定義と近い。デュルケームの定義は「当の受難者自身によってなされた積極的あるいは消極的行為から直接的あるいは間接的に生ずる一切の死を自殺と名づける」というものであった。

 「自殺の定義」

https://jssc.ncnp.go.jp/archive/old_csp/manual/gyosei/gyosei20.pdf